「えっ?」
応接間に入ってきた真木原かず美は声を上げた。
拘束して床に転がしておいたはずの男がいない。気が付いてどこかに移動したのかと慌てて部屋中を探す。
「えっ、嘘、だって、えぇっ?」
そんな彼女の様子を、戸谷秀平は開かれたドアの陰からこっそり伺っていた。
(こんな古典的な手もわかんないのかなぁ)
とはいえ、そもそも秀平は全体的に黒い。髪は生まれてこの方染めたことがないカラスの濡羽色だし、羽織っている薄手の上着もゆったりめのパンツも靴も、黒やら暗いグレーやらが多い。肌の色は白い方ではあるものの、露出が少ないから薄暗い中ではそう目立たない。それに、逆に古典的な手だからこそ悟られないのだろう。今のかず美は冷静さを欠いている。
隙をついて、するりと廊下に抜ける。とりあえずどこかに隠れなければと周囲を見回すと、丁度よくドアが少しだけ開いた部屋を発見する。物音を立てないように入り込み、しゃがんで物陰に身を隠し、上着で光が漏れないように覆いながらスマートフォンを見る。謠子からまたメッセージが届いていた。
[できたら何か証拠になるようなものの写真撮っておいて]
[報酬は弾む]
何日か前に平田に言われた言葉を思い出し、笑いが漏れる。
「二人しておんなじこと言うんだもんなぁ。ほんとそっくり」
証拠になるようなものとは、と考える。まだ仮定ではあるもののかず美の持つギフトからいって、何かを鉱物に変化させた物質が妥当か。
(ってことは、石……かな……)
立ち上がろうとすると、上着の裾を踏んでいたらしくよろけた。何か硬いものに後頭部がぶつかる。
「いっ……」
この感じ――金属や木材とは違う。
もしかして。
しゃがんだままそっと体の向きを変え、自分の後ろにあった、頭を打ち付けただろうものを手で探る。布で覆われているが、間違いない。
「石……」
布を捲り上げてスマートフォンのライトで照らす。
光を反射してきらきらと輝く、紫水晶の塊。
ゆっくりと立ち上がり、その大きさと形状を確認する。
紫水晶は形成する際に小さな結晶が集まった形をとることが多く、表面がごつごつとしていてしかも突起の先が鋭くなっている。手を切らないように注意を払いながら、下からそっと全体の形をなぞっていく。
「足……腰……手……肩……頭……」
薄々そんな気はしていたが、人の形をしているとはっきり確信した瞬間、全身に鳥肌が立った。
これは、人間だったものだ。
寒気と同時に冷や汗が噴き出る。
全身で、恐怖を感じる。
呼吸を止めて、一歩下がると、またしゃがみ込んだ。ようやく息を吐き出す。
(誰だ……これ…………何か、身元がわかるもの……)
何とか気を取り直して調べようと人型の原石の周囲を探るが、寒気が止まらない。
これに近付きたくない。手が震える。何かが張り詰めていくのがわかる。
そのとき、ドアが開いて照明が点灯した。
「あ~、いたぁ」
軽薄でねちっこそうな声に振り返ると、地毛がかなり伸びているのか、黒髪と金髪が入り混じり虎模様のようになっている男がいた。ホスト上がりでかず美に気に入られているというからには顔はそこそこ整っているはずなのだろうが、声によく合うにやにやとした下卑た笑いを浮かべているせいで、どうにも品がないように見える。
「……あんた、安河?」
動揺を相手に悟られないよう、そして己の気を沈めるよう、静かに深呼吸をして呼吸を整え、スマートフォンをポケットに収めながら問うと、
「そうだよぉ」
にやぁ、と笑う。厭らしい顔だ。
「俺、黒宮修平じゃないんですけど」
「みたいねェ~、まー似てるっちゃ似てるけどさァ、やっぱちょっと何か違うもん。あんたもキャプター?」
「あんた『も』」?
「キャプター……じゃないですけど、」
ふと、何故か思い出してしまい、
「シーゲンターラー謠子様の忠実な犬です」
思わず口に出す。平田がよく用いるフレーズである。あのおっさんと同類なのか俺は、と内心自身に突っ込むが、考えてみれば実際同じようなものだ。
へェ、と安河は馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「あ~、あのお嬢ちゃんねェ。キャプターだっけ? あんなガキんちょキャプターにするなんて、エリュシオンあッたまおかしいんじゃねーの?」
いや、これは実際馬鹿にしている――自分ではない、謠子を。
苛立った。
「侮んねー方がいいですよ。あのお嬢さんは特例でキャプターになったんです。少なくとも、あんたが百人いたって絶対敵わない」
「ふーん、そォ、やべーんだ? じゃあ気ィ付けよっと」
けらけらと愉快そうに笑う。
「何だぁ、てっきりあんたもそうかと思ってたんだけどな、ただの黒宮じゃねェパンピーか。ま、かず美ちゃんは黒宮クンとやらにこだわってるみてーだけどぉ、俺にはそんなんどうでもいいしィ~」
かず美は秀平を黒宮だと思っているが、安河は秀平は黒宮ではないと知っているということか。
「どうでもいい? 真木原かず美がやっていることが法に触れているんだとしても?」
「だァってさァ、俺じゃなくてかず美ちゃんが俺に貢ぎたくてやってることだよォ?」
「自分でやってなくても幇助してれば現場助勢罪になるんですよ」
「え~何それ難しいことわっかんねェ~。ってか、あんたが宝石になっちゃえばそれ関係なくね?」
罪の意識は皆無らしい。自分がよければあとはどうでもいいと考える部類の人間か。奥歯にぎゅっと力が入る。
「よりによって人違いで死ぬなんて御免です」
「あっそォ。じゃあもっかい寝てもら」
と、安河が言い切るより先に、
「誰が同じ手に二度も乗るかってんですよ」
秀平が踏み込んだ。安河の右腕を掴んで足を払い、うつ伏せにした状態で掴んだ腕をそのまま後ろ手に捻る。
昼間簡単に拉致できたはずの貧弱そうな男が見せた素早い動きに驚いたのと、捻り上げられた腕の痛みとで、安河は息を引くような奇妙な悲鳴を上げた。
「な、な、なんっ……」
混乱しすぎてちゃんとした言葉すらも出ないでいる。秀平は安河がギフトを発動させる暇も与えないように、更に腕を捻った。安河は痛みで呻くことはできても集中はできない。これまでの経験上何となくわかっている――こういう罪悪感がないだけの小悪党は、少し捻れば頭が回らなくなって抵抗しなくなる。
「…………キャプターじゃないとは言ったけど、ディプライヴドとは言ってないですよ、俺」
聞き取れるように、低く、ゆっくり言うと、安河の体がびくんと跳ねた。
「ひァッ……⁉」
「言ってる意味、わかりますよね?」
「や、やめっ……なにする気だよォッ……おま、……何なんだよォッ……⁉」
「何って」
膝を使って安河を押さえ込むと、秀平は捻っている腕の袖を捲り、直接手首を持った。
「あんたと同じ、ちょっと不思議な力を持ったしがない一般市民ですよ」
真木原かず美が倉庫部屋で安河元宣が倒れているのを発見し驚き喚き散らしていたその頃、秀平はのんびりと事務室を探っていた。少し余裕があるのは、安河が意識を取り戻したところでしばらく使い物にならないと知っているからだ。
「石の他に証拠になるもの……何かねーかな……」
「何、してるんですか……?」
一瞬、やばいと思ったが、かず美と違う声のトーンだとわかると慌てることなく振り返る。
知香がいた。秀平は、ぺこ、と会釈する。
「どうも、フライングガサ入れです」
「えっ?」
「つーか、まぁ、これも不本意ながらなんですけど」
何しろ攫われてきたもんで、と言いかけたが飲み込んで向き直り、秀平は再び周辺を探る。
「もうすぐ援軍が来ます。その前にちょっとね」
援軍、と復唱する。
「謠子ちゃんが、来るんですか?」
「はい。あんたの母親、アビューザーとして捕獲されますよ。あの、安河って野郎も」
昼間の様子から考えて、きっと謠子は秀平を助ける為だけでなく、捕獲の準備を完璧に整えて来るはずだ。
すると知香は、デスクの一番下の引出しを開けその更に奥に腕を入れた。引出しの中ではなく、僅かに空いたその下の空間に何かを隠しているらしかった。
取り出したものを、秀平に手渡す。
小型のICレコーダーが三つ。
「母と安河の会話です。できるだけ録音しておきました」
その場で一つ、再生ボタンを押してみると、確かにあの二人のものであろう話し声が入っている。
準備がよすぎないか? 秀平は訝んだ。
「あんた、何でこんなもの」
「いずれ必要になるからって。そのときが来たら、頼れる人に渡せって」
まるで誰かにそうするように言われていたような口ぶりだ。もしかしたら。
「黒宮さん、ですか?」
知香の表情が引き締まった。
「はい」
秀平が間違えられたことからも、黒宮修平は確実にどこかで生きている。そしてこうなることを予測して、知香に助言をしていた――少しずつ、本当に僅かではあるが、事件の全容が見えてきた、気がした。
「お嬢さん。もしかして、黒宮さんって」
「こんなところにいたの?」
声。ぞわっと悪寒が走る。
秀平と知香は事務室の出入り口を見た。同時にレコーダーをさっと上着のポケットに隠す。
真木原かず美は微笑んでいる。
その右手には、何かを引き摺っている。大きな深い赤色の石の塊。
――否。
あの形は、腕?
「お帰りなさい知香。丁度よかった。修平くんも来てることだし、そろそろ貴女たちの式の話を進めなくちゃね?」
そう、彼女は微笑んでいる。美しく、優雅に。
しかし目だけは虚ろだ。
どこを見ているのかわからない。知香か? 秀平か?
「ねえ、知香、モト君ひどいのよ。私、助けようとしたのに、来るなって叩くの」
ずるり、と引き摺っていたものを前に出す。
ゴトン。大きな硬いものが落ちる。
安河が小さく呻いている。
かず美が掴んでいた腕が、背中が、赤くきらきらと輝きを放つ。
鉱物化していた。
パキパキと小さく硬質な音が聞こえる。範囲が広がっているのか。
「あんた、……それ……」
好きな男じゃないのか、という言葉が出ない。
「だって、モトくん、ひどいんだもの」
先程と同じことを言う。正気を失っているのか。
「ねえ、修平くん。指輪にどう? この石。ガーネット。知香の誕生石なのよ」
「お母様、何やってるの⁉」
知香がかず美に詰め寄るが、かず美はにこにこと笑ったままだ。
「ほら、見て。すごく質がいいのよ、こんなにきれい。これなら大きなカットもできるわ、格安でいっぱいアクセサリーを作れるわね、ふふふ」
「やめて、もうやめてよ! 確かにお父様が死んでちょっと落ち込んだこともあったけど、こんなひどいことしなくてもうちはちゃんとやってこれてたじゃない!」
実際にやっていることは「ひどいこと」どころではない。知香も麻痺しているのか。
ちらり、と秀平の頭に“逃げるなら今だ”という考えがよぎる。
謠子は間もなく到着するだろう。ギフトを使えることを考慮しても非力な少女である彼女が自ら捕獲することはまずないし、平田がほぼ常に傍にいるとはいえキャプターでない彼に捕獲の権限はないから、他のキャプターもいる可能性は高い。謠子と一緒にいるのが昼から謠子のところにいる秀平の父・誠だけならまだいいが、そうでなければランナーである自分がいるのでは都合が悪い。
しかし、知香をこのまま残して自分だけ逃げてしまっていいものか。かず美は先程「一緒に固める」と言っていた。安河だけでなく知香も石にされてしまうのではないか。
「だってね、知香、いっぱい稼がなきゃ。モトくんにも貴女にも、いい思いをさせてあげられないじゃないの」
「私はもういいの、もう充分! 安河さんの為って、お母様、安河さんのこと好きなんでしょう⁉ 安河さんをこんなふうにしちゃったら意味ないでしょう⁉ お母様! お願いやめて、今やめれば安河さんだって」
「だって、モトくん、ひどいの」
また同じことを言っている。秀平は気付いた。
(これがギフトの代償……?)
使い続けることで起こる思考能力の低下――というより、脳の機能そのものが低下しているのではないか。それで秀平と黒宮の見分けもつかなくなっていたのだ。ということは、
(俺を拉致する前にも誰かを……)
浄円寺邸から真木原宝飾店までの間でギフトを使っていた?
その途中には兄・優真の勤める銀行。
(まさか、さっきの)
秀平よりは背が高いが、髪も染めていないし似た顔立ちをしている。しかも黒宮とは職場が一緒だった。
そういえば、あの紫水晶の塊は、秀平の背丈よりも大きかったような。
黒宮と間違えられたのだとしたら。
「あんた、俺をここに連れてくる前に誰に何をした?」
ゆっくり、かず美に近付く。かず美は秀平を見ると、にこりと笑った。
「貴方が悪いんじゃない。キャプターに通報するだなんて言うから」
返答になっていない。
「私、頑張ったのよ。モトくんが言うから。この店の為だって。知香の為だって」
「それで他人を石にして切って削って売った? ふざけんなよ。何であんたの欲の為に全く関係ない奴が命落とさなきゃなんねーんだよ。男が言うから? 娘の為? その娘に罪なすり付けて、石にしようとしてたくせに? 色ボケも大概(たいがい)にしろ」
秀平はかず美の体を壁に押し付けながら締まらない程度に首を掴んだ。ひぐっ、と小さな悲鳴を上げながらも、かず美から不気味な笑みは消えない。それが秀平の怒りに油を注いだ。
「あんたには、生きたまま地獄を見てもらった方がいいな」
左胸が熱くなる。
紋章が浮き出ているのを感じる。
かず美から表情が消えた。
数秒、目が泳いでいたかと思うと、顔を引き攣らせながら激しい雄叫びにも似た悲鳴を上げる。まるで人間のそれではない、獣のようだ。それでも秀平は手を緩めない。
ギフト『幻影』。
直接触れている間、相手に“望んでいるもの”または“恐れているもの”の幻を見せる能力。
強制的に延々と恐怖だけを感じさせれば、場合によっては精神も崩壊させられる、使いようによっては危険な力。
「何してるんですかっ、やめて下さい‼」
母の発狂せんばかりの様子に知香が秀平を引き剥がそうとするが、秀平はかず美に幻影を見せ続けた。
確かに優真とはお世辞にも仲がいいとは言えない。それでも――
と、
「秀平くん、ストップ」
脇腹に一撃。
「んぎゃっ⁉」
集中していた中で急に受けたくすぐったさに思わず手を緩める。かず美はまだ恐怖の幻が見えているのか、絶叫しながらその場に崩れる。
「壊れちゃったら、聴取できなくなっちゃうよ」
聞き慣れた声にはっとすると、いつの間に来ていたのか、傍らに謠子の姿があった。
「うたこ、さん」
スッと、熱が、冷めた。
<つづく>
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やっとこさ主人公らしく無双です
次回、解決編 完結になります